曽我岸綱盛稲荷そばの御主人によると名月地区は現在4軒ある。中川原地区と山岸地区の間の狭い範囲にあり、72 号線沿いに面している(案外わかりにくい)。碑文の刻印文字によると浜松城主の息女の家臣一行が弘化年代(陽石の刻印文字)に当地に来たらしい。石碑を取り囲むように5輪塔があり供養塔のようである。石碑の裏側は柿園、左右は梅園が広がっている。(平成 28 年 10 月 03 日) 梅園で作業をしていた年配の女性の話によると、この辺で争いがあったとのことを祖父から聞かされたが、なぜ浜松からきたのか等詳しいことはわからない。
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